....now you know, I am ready for all

言霊

2.


汗が乾いていく。身動きすると相手の長い髪が絡まり、まとわりついた。

「今日のお前、何だかすごかったぜ。」

「…まあね。」

「そんなによかったか?」

「見ての通りだよ。気持ちはよかった。」

むくりと起き上がり、額にかかる髪をうっとおしそうに払う。
淡々とした声、だけど視線を合わせない。傍らのグリードがじっと見つめているのを十分に意識しながら敢えて目線を外している。無表情を装いながら、どこか悔しくて切なそうな顔で、それでいて開き直ったような様子に一瞬見とれた。改めて思う。

(やはり、最初の頃とは随分変わった。)
(…こんな表情、するようになりやがって。)


男の方は見ずにベッドから降りる。ぎしりと安い板葺きの床が軋む音。のろのろとした動作で床に落ちた服を探し、拾うために俯いた途端、ため息が一つ落ちた。



事実、悔しいと感じている。
前に会ったときから今日ここに来るまでの間、よく男のことを考えていた。つまり長い時系列の果てに今の逢瀬があるという感情。
しかし会った途端、男が同じ想いを共有してはいないことを、「そういえば久しぶり」という程度の気分であることを思い知らされ、漠然と負けた気がした。しかも切ないことにその感情が返って情欲を煽り、いつになく滑稽なくらい乱れてしまった。
それだけではない。つい先ほど恍惚感の中、我知らずあることを口にしていた。身体が冷め我に返った今改めてそのことを自覚し、いたたまれない。出来れば忘れたいとすら思っている。




だが彼(彼女)が気づいていないこと、そして男がわざと説明していないことがある。
逢っていないとき、男はむしろわざと、目の前にいない存在のことを考えないようにしていた。
男の方が少なくともある点においては、彼(彼女)がそうである以上に、相手のことを激しく求めていたからだ。

その感情には、男自身が自覚し肯定している部分と、そうでない部分があった。
まず、彼はエンヴィーの身体に非常な執着を感じる己を自覚していた。強欲の原理が指し示すように、目の当たりにすると欲望の赴くままに貪らずにはいられない。しかも相手は儚い人間ではなく生命の樹そのもののような存在。同じ激しさで、力強く応える。
それは最早、麻薬のような快楽。一旦触れてしまうと際限なく深みに引きずり込まれそうになる。だからいつもは無意識のうちにも考えないようにしていた。他のことで思考を占めるようにしていたのだった。例えば目の前の仕事、戦闘、日々の食事、通り過ぎていく人間たち。

同時に男は漠然とわかっていた。その一方で、身体への執着、肉欲そのもののような欲望の中に、よくわからない不透明な部分、自分でももてあます要素が混じっていることを。およそ情緒的ではない男はその感情を言語化する語彙を持ち合わせておらず、まだ向き合おうともしていない。ただぼんやりと意識しているのは、エンヴィーの肉体が男にとってただ性的な歓びをもたらすだけのものではないということだった。

そもそも関係の始まりからして、交わりは意味を帯びていた。
同胞のホムンクルスであるエンヴィーが「偽の雌雄同体」であることをこの目で確かめ抱いたそのときから、そこに彼は自らが求めてやまないものの似姿、来るべき究極の肉体、永遠の命と完成された身体の幻影を見ている。
だから手を伸ばし、かき抱く。組み敷き交じり合おうとする。


……いや、それだけではない。
時として、彼(彼女)と逢うことは、男にとって自らの存在原理と直接対峙することを余儀なくされるような恐怖を伴っていた。
そして今もそれを感じている。


さっきの光景が、頭を離れないからだ。



「………好き、」


達したとき、敗北宣言のように短く、苦しい息で漏らした。その後ぐったりと力なく頭をシーツに沈めた。背けた顔が長い髪に覆われ、その表情を隠していた。逢いたかったとしがみつくのが珍しければ、こんなときにそんな告白めいた台詞を漏らすのもこれまでなかった。もう何度も身体を重ねてきたのに。
負けたのは自分の方だったかも知れない。
不覚にも、一瞬、その言葉に思考全てを持って行かれそうになったのだから。


人を模した人ならざる身とはいえ、その台詞の意味はよくわかっていた。長い生の間、関りを持った女は数知れない。むしろ聞き飽きていたはずだった。
それにも関わらず激しく驚いた。我知らず揺さぶられた。何故かはわからない。
ただ唐突にその時、自分が今まで一度たりとも、誰かに向けてその言葉を使ったことがないことに思い至った。
そしてその言葉が、他ならぬ同胞の口から己へと発されたことの不思議さに、刹那、打たれた。

強欲。生まれたときから、欲しいという欲求だけがその身を貫いていた。
全てが欲しかったし、これからも欲しい。女も、金も、権力も、永遠の命も同じように求めていた。だからいつもそのことは率直に伝えた。関わるもの全てに告げた。そして同じやり方で、今腕の中にいる同胞もとうの昔に征服したつもりでいた。

だが腕の下、安らかに横たわる身体を、青白い血管の僅かに透ける閉じた目蓋を見ているとよくわからなくなってくる。
己は今、改めて何を得たのか。

最初の時以来、何度かこうして時を過ごした。その結果、まるで初心な小娘のように、エンヴィーが自分にすっかりなついてしまったことはよくわかっていた。同胞であり、兄にあたる存在への気安さも手伝ってそうなっていることも。
傍目に面白いくらい、言わずとも身体が、態度が物語っていた。だから男も、全てを手に入れたつもりでいた。

なのに何故、このわかりきっているはずの事実、それが言葉となった途端に動揺したのだろう。
そもそもエンヴィーは何を今更、改めて伝えようとしたのか。


男には、欲しい、という気持ちの他、己の感情を確認する習慣が乏しかった。その必要も感じていなかった。そしてエンヴィーも今まで何も言わなかったし求めなかった。だから彼にはわからない。彼(彼女)のうちに生じた変化が。


違うのは、刹那、そこに意志ががあったということだ。
身体の熱、身振り、もの言わぬ表情だけでは足りない、表現しきれない想いがあった。ただでさえ本人にとっては作り物、着ぐるみのように感じているであろう肉の器を通してぼんやりと示すのではなく、そのままそれを、投げつけてしまいたいという気持ち。
快楽が極まった瞬間に、たがが外れた。いや、むしろ、傍目にそれとみてわかる肉の歓びだけにさらわれてしまいたくなくて、精神が最後の抵抗をしたような。
だから言葉にした。熱に浮かされたような状態で――――解き放った。



グリードはベッドの上に起き上がり、正体の分からない感覚に囚われたまま柄にもなくぼんやりとした。
彼にしては珍しいこと。だがエンヴィーと深く関わるようになってからそのような機会は増えているのかも知れなかった。


(どのみち、ヤツの考えていることはわけがわからん。わかるつもりもねぇ。)

(…だが、それでも驚いた。)
(あれを聞いた途端、何かが流れ込んできたように感じたからだ。言葉の向こう側から、)

(何かはわからねぇ。ただ、まるで、)

(……魂、のような、)


(…いや、ばかげているな。そんな考えは。)


だが、その「何か」に危うく満たされそうになった。
既によく知り、交合に慣れた身体、他でもない自分だけを今この瞬間、全身全霊で受け止め震えてくれているこの身体の前で、充足してしまいそうになった。

そして、その感覚に戸惑っている。本人は認めたくはないが、それは最早、畏れと呼ぶに相応しいような感情。


何故か?

――――ほんの一瞬だが、己はこの先に行けないのではないかという気持ちに囚われたのだ。

この力強く、おぞましくも美しい怪物。不定型な肉の器。完全な姿のレプリカ。自分は欲しいのは本当にその向こうにあるものなのだろうか。
このまま一生、出来損ないの偽物、父の駒でしかない腕の下の存在と戯れ、満足して終わるのではないか――――

そんな疑念が頭をよぎったのだ。



(……くだらねえ、)

(本当に馬鹿馬鹿しい。)


再度打ち消す。頭から思考を振り払い、封印する。丁度いつも無意識のうちにやっているように。