重い鉄の戸を押して入る。
軋む蝶つがいの音に細身の人影が反応した。独房の奥、粗末な寝台に腰掛けている。中はかなり広い。扉の閉まる音を背に近づいていく。
振り返った斜め横顔を人工灯の逆光が縁取るのを見たとき、グリードは言葉を忘れた。何故かは分からない。一瞬、空気に飲まれた。
予測に反して、エンヴィーの眼差しがひどく静かだったからかもしれない。
男の方はあらゆる反応を覚悟していたのに、彼(彼女)はただ、ちらりと視線を投げただけだった。
「何の用?」
先に口を開いたのは向こうだった。一拍遅れて男は我に返る。
「…てめぇが来ねえから俺の方から来てやった。」
かろうじてそれだけ言った。
「は、呼んだ覚えはないけどなぁ…。」
相手は皮肉げに唇を歪め、くっくっと喉で笑ってみせる。男はその表情に不思議な懐かしさを感じた。何故懐かしいのかと一瞬考え思い当たる。数ヶ月ぶりだということだけではない。そういえばこういう表情はむしろ情を交わすようになる前によく見ていた。それも大抵は仕事で偶然タッグを組まされ大いに壊した後、瓦礫やら死体やらの後始末をしながら、よくこんな風に笑っていたのだった。
目が慣れてきて室内を見まわす。無機質な部屋であり、むしろ想像していたより整然としていた。ただ、いくつか千切れたままのケーブルがあるのと、よく見れば壁の一部がまるで強い力を加えられたかのように変形している。
周囲の環境に刻まれた激情の痕跡。それが今の静けさと恐ろしいまでのコントラストを成し、人ならぬ身であるはずの男ですら微かな戦慄を覚えた。問いかける。
「何日くらいここにいたんだ?」
「さあ…忘れた。」
どうやら時間の感覚は失っているらしかった。それも無理からぬ事。究極には食事も睡眠も必要のない身ゆえ、幽閉となれば徹底して外界から隔絶されてしまう。遙か昔、男にも一度覚えがあった。父に逆らい罰を受けたのだ。
「何やらかしたんだ?」
しらを切って訪ねてみる。
「さあね。」
素っ気ない返事。エンヴィーはふいっと視線を逸らし壁際を向いた。言葉が途絶えた部屋を静寂が支配する。男は何かを言おうとしてやめた。代わりにエンヴィーの横顔を見る。まるで光に縁取られたその輪郭を目に焼き付けようとでも言うように。
先刻まで向きあっていたからだろう。ついラストのそれと重ねてしまう。
当然といえば当然であるが、意識してみると二人はよく似ていた。男自身も二人と似ているのだが、背格好の近さゆえにラストとエンヴィーの方が近い外見をしている。というより、それはまるで一つの同じものを別の形に分岐させたようでもあった。
ホムンクルスであるラストは生まれたときから今の姿であったが、もし少女の頃が有ればエンヴィーのような顔をしていたかももしれない。逆に言えば、エンヴィーが女性として成人すればラストのような姿かもしれないし、男として成人すれば己のようになるのだろう。それら全てを直感的にグリードは理解した。
母を持たず、同じ父から生まれた自分たち兄弟の起源を思えば当然のことかもしれない。しかしそのような発想に至ったことに、男はいささかの驚きを覚えた。それまで考えたことすらなかったのだ。
無視していたが、エンヴィーは男の視線を痛いほど意識していた。
どのくらい時がたっただろう。ついに耐えきれなくなり沈黙を破る。
「人に質問する前に、あんたは?」
相変わらず顔はそっぽを向いたままだ。
「ん?」
「何の用?会ってどうしたいわけ?」
「何ってそりゃあ……」
言いかけて言葉に詰まった。確かに俺は何をしに来たんだろう。
すると、エンヴィーが急に振り向いた。少しわざとらしい陽気さを帯びた声を出す。
「まさか、よりでも戻そうってわけぇ?」
微かに細めた瞳の赤が逆光になった人工灯の灯りに透けた。その唇をゆがめた微笑に、男はやはり先ほどと似た不思議な懐かしさを感じて少し笑う。
「まあ…な。」
ぶっ、とエンヴィーは吹き出した。
「あっはっは。」
「何が可笑しいんだ。」
「らしくないから。」
「悪いか。」
図星をさされ、無愛想な短い答えを返すしかできなかった。エンヴィーは答えず肩を揺らして笑っている。頬にかかる長い髪に遮られて表情は見えない。調子を狂わされながらもひとまず会話の糸口がつかめたことに男は安堵を覚えた。そんな心の動き自体まるで強欲らしくないのだが、そのことを意識する余裕もこの時だけはない。悪くない雰囲気じゃねえか、と単純に喜ぶ。何より相手の反応が予想より「まとも」であることも男を安堵させていた。
だが、そのときだ。それまで快活さを装っていた彼(彼女)が、急激に声のトーンを落とした。
「でもお生憎様ぁ。」
俯く横顔に影が差している。口元に張り付いていた笑みはいつの間にか消えていた。そして低い声で鋭く、吐き出すように言う。
「遊びはもう終わり。…あんたともね。」
男としたことが一瞬虚を突かれた。
冷水を浴びせられたような、という表現が相応しいような驚愕にとっさに言葉が出てこない。
「聞こえた?あんたとはもうお終いって言ったんだよ。」
「…は、そりゃまた唐突だな。」
狼狽ゆえだろう。考えるより先に、つい下品な冗談が口を突いて出た。
「てっきりそろそろ欲求不満かと思ったのによ。」
しかし相手も負けていなかった。
「あっはっは、ご心配どうも。でも幸い遊び相手なら事欠かないんだぁ。」
「ほう。随分と大人になったもんだ。早々と誰か見つけたか。」
「うん。こないだね。見つけたよ、いい玩具。」
己の顔から笑みが消えたのを男は自覚した。
「…人間か?」
思わず気色ばんだ男の語調にエンヴィーはあられもなく得意そうな顔をする。
「さぁ、どうだろねぇ。」
一杯食わせてやったとばかりの笑みが浮かび、小鼻が少し動くのを男は見た。
先程までのあだっぽい態度や仕草とはまるでちぐはぐな、どこか子供じみた表情。だがそれを見て、グリードは返って少し冷静になる。
そうだ、俺はこれしきのことでのぼせてはいけない。
だが、一方ではどう反応すればいいのか分からないのも事実だった。
女が裏切ったとき何をしたか、改めてこれまでの長い生涯を振り返ってみる。みじんも考えが浮かばない。幸運なことに、思い出す限りそのような事態に出くわしたことはないのだった。
もしくは仮に起きていたとしても恐らく頓着していなかったのだろう。数百年の生を持つ彼にしてみれば、酒場で会って懇意にした女がその後どうしようが、誰と結婚しようが、どこで子供を持とうが、確かにどうでもよいことなのだった。全てが己のものと思いこんでいる男のことだ。「持ち物」の日常の細部にまでいちいち関わり合っていたらきりがない。何より彼は、己の生きる時間が人間達のそれと違うことをよく知っていた。美しい蝶が己の牧場を飛び回るのを時折捕らえ、間近に見て楽しむような思いで女達を慈しんでいた。
それが同胞であるエンヴィーとだと何か違うというのか。男にはわからない。
だからとりあえず思考を止め、手探りのまま会話をつなぐ。
「人間じゃねえとしたら…じゃあ、キメラ野郎か?」
「……んなわけないだろ。」
途端に不機嫌そうな声が飛んだ。見ればさっきと表情は一転、眉間にしわが寄り、唇を突き出して嫌悪をあらわにしている。
彼(彼女)はそういえば人間を見下す以上にキメラを蔑んでいるのだった。分かりやすいヤツだ、と男はおかしくなる。
「要は、俺だけのモンじゃねえ、と言いたいわけか。」
「はは、最初からあんたのもんだったことなんてないなぁ。」
髪をかき上げてしれっとした顔でエンヴィー。だが、少しずつ平静さを取り戻す男の態度と反比例するかのように、その表情が余裕を失いはじめている。男はといえば、そんな様子を見るのが嬉しくてたまらない。そしてわずかに考えを巡らし、ふとある簡単なことに気づいた。
「しかし、お互い様ってやつじゃねえか?そんなら。」
視線の先、相手が反応する。髪に添えた手が一瞬止まった。
「それぞれ好きなように楽しんでんなら、それもありだろ。お前はその誰かさんと、俺は旅先で。」
男の声は再び暢気な調子に戻っていた。少し気に入らないがそれも仕方ない、といった素朴な寛大さを発揮する彼は、少なくとも傍らの彼(彼女)とは全く異なる精神世界に住んでいる。例えていうなら、気に入った色の蝶が時折他の花園で蜜を吸っているからといって、それが目の前を飛んだとき己の庭から追い出すというのも野暮だろう。そのような発想法でまた己を納得させようとしているのだ。
「で、お互い暇んなったら、また――」
「嫌だ。」
鋭い調子で遮られた。
「そりゃまた、何故だ。」
含むところが何一つ無い男の問いに、エンヴィーの瞳がふうっと細められ眼差しが鋭くなる。強い感情がその表を覆っていくが言葉にならない。数秒の沈黙のあと視線を落とす。そして、ただ、かすれた声でつぶやいた。
「別に……単にあんたがイヤなだけだ。」
「そんなにイヤか。」
「…………イヤだ。」
男は頭をかく。さすがに少し途方に暮れた顔をした。
「ずいぶんと嫌われたモンだな。」
沈黙が落ちた。エンヴィーはうなだれた姿勢のまま動こうとしない。
グリードはポケットに手を入れたままため息をつき、そのまま彼(彼女)に背を向けた。あてもなく二、三歩を踏み出し立ち止まる。実に殺風景な部屋だった。生活の道具はといえば背後の寝台と人工照明だけ。また、目が慣れてくるとそれが以外と広く、ちょっとした屋敷の応接間くらいはあるということもわかった。奥行きがあるだけでなく横に細長いのだ。独房というより昔は物置のような場所だったのかもしれない。
そのときだった。後方から、ぽつりと独り言のような声がした。
「……みんな嫌いだ。」
「はっ。そいつのことは嫌いじゃないんだろ。」
売り言葉に買い言葉程度の感覚で、揶揄するように吐き捨てる。
すると惚けたような奇妙な反応が返ってきた。
「…そいつ?」
「お前さんの新しい玩具とやらさ。」
少しの間があった。そして奇妙に穏やかで抑揚のない、うっかり聞き逃しそうなつぶやき。
「……もういないよ。」
「…なに?」
男はぎょっとして立ち止まる。振り返った。エンヴィーは相変わらず同じ場所に座り、膝の上で頬杖をついている。男の方は見ておらず、斜め上、虚空に放心したような眼差しを向けていた。そして歌うように言った。
「死んだから。」
その言葉を聞いた途端、不意にラストの顔が脳裏に浮かんだ。苦々しげに語っていた。何だったっけ?
世話をさせていた――――
「そういや、ラストのやつが言っていたが…」
そうだ、人間の、錬金術師。
「お前、親父殿の大事な囚人を殺したそうだな…。」
凝視する視界の中、エンヴィーの眉が一瞬だけぴくりと動く。
「ひょっとして……それが、お前の『玩具』か?」
エンヴィーは黙して答えない。その顔から表情は消えており、人工照明の光に透ける虹彩がガラス玉のようだ。だがそこに男は肯定を読み取る。違えば否定するはずだからだ。さっきのように。
動悸が激しくなる。
「そうなんだな?…………何故だ?」
不覚に語尾がかすれた。経緯の異様さに改めて打ちのめされたからだ。
確かにこれまでもエンヴィーが人間を虐待することはあった。殺した数は計り知れない。だがそれは父や兄、姉の許可が前提だった。集落一つつぶすにしても、例えそれに嬉々として取り組んでいたとしても、全て命令の許す範囲内でのことだったのだ。それ以外ではむしろ迂闊に殺さないし壊さない。
なのに「計画」に関わる人材を殺した。
「荒れていた」とラストは言い、己とのことがその責任の一端にあるだろうとは推測していた。しかし八つ当たりでうっかり物を壊したようなイメージで想像していたのだ。むしゃくしゃした人間の子どもがぬいぐるみを壁にたたきつけボロボロにするような、そんな感覚の行動を思い描いていた。
だがどうやらそうではないらしい。
グリードの脳裏には、フラッシュバックのように、自分に斬りつけたときのエンヴィーの表情が思い浮かんでいた。
―――アレと同じことをその男にもしたのだとしたら?
つまり自分と別れた後、自分とするようにその囚人と乳繰りあい、何らかの理由でその結果がこじれてそんな振る舞いに出たのだとしたら。しかも父の意図に背くことすら躊躇せずに。
生々しい血のにおいの記憶と共に、思わず薄暗い牢獄で人間と激しく絡み合う同胞の姿まで勝手に思い描く。執着、愛憎、暴力。男の胸は怪しく高鳴った。いや、まさか、しかし。
「一体、何が…。わけがわからん…。」
突如、これまで把握し尽くしていると思っていた同胞の姿を見失ったような思いに囚われる。
「お前ともあろうものが……親父殿の目にそれがどう映るか、わからねえわけじゃあるまいし……。」
とりあえずかろうじてこう言った。己にあれほどまでの怒りをぶつけた相手が、同じようなことを他の相手にしていたかもしれないという想像にも動揺しているが、そこはうまく言語化できない。
「もう一度そんな真似してみろ、消されるぞ。お前。」
事実、先刻のラストの話からするにエンヴィーはその瀬戸際にいる。
いや、より正確にいえばこうだろう。機械師が不具合の出た「作品」を回収し修理することを厭わぬように、造物主たる父は不出来な子を「作り直す」ことを躊躇わない。それは大抵、魂の初期化、すなわち一切の記憶を抹消した上での「再生」を伴った。すなわちホムンクルスとしての存在は消えないが、今日まで紡いできた日々とそこから得た人格の一部分は確実に失われることになる。
この全て、兄弟の誰もが理解しているはずのことだった。
色を失う男の前、彼(彼女)がやっと重い口を開く。
「…へえ、心配してくれるんだ。やさしいじゃん。」
言葉とは裏腹に、全てどうでもよいといわんばかりの乾いた口調。その投げやりで醒めた態度を見たときだった。男は初めて、煮えたぎるような感覚が腸の底からこみ上げるのを感じた。
「馬鹿だ、と言っているんだ…。」
苛立ちをぶつける声が震える。それは自分でも理由の分からない、今までに経験したこともないような激しい感情だった。
「しかもその調子じゃ、ロクに楽しめもしなかったんだろ。ただ単に全部ぶっこわして、今こんなことになってる…!」
最後の言葉に初めてエンヴィーの表情が動く。
「黙れ…。」
ぎりっと奥歯を食いしばり、何かに耐えるように顔をゆがめる。だがグリードは止まらない。激情のままに叫んだ。
「黙るもんか。いくらでも言ってやるぜ!てめぇはどうしようもねぇ大馬鹿モンだ!!!」
「――――うるさい!!!!」
絶叫と共に、目の前で細身の身体が一瞬火花を散らし膨れあがったように見えた。
続いて、ドカンと鈍く重い衝撃音。
エンヴィーが側面にある壁を渾身の力を込めて殴ったのだ。その人間を超えた力に、張り巡らされた頑丈な金属板がわずかにだが変形した。
部屋に入ったときに見た他の壁と同じように。
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