「何だ?いつもの場所にはいねえのか。」
キメラの群れる長い廊下をわたり、下へ下へと下りていく階段をいくつ過ぎただろうか。向かっているのは居住区ではない。それが意味するところを男は漠然と理解し、かすかに動揺を覚えていた。
辿り着いたのは方形をした広間。地下にしては広大な空間だった。向かい側に扉があるらしいが、その前にいる巨大な人影が遠近感をおかしくしている。
「スロウス、見張りはもういいわ。グリードが来たから。」
面倒くせえ、というつぶやきが遙か頭上から漏れた。この弟に会うのが何年ぶりかグリードには思い出せない。うっかりすると顔も忘れそうだった。既に今も通常の人間の数倍はあろう背丈が薄暗い空間の中で病みに紛れ、その顔の認識を困難にしている。暗がりにきらりと光る双眸と目があったのかも定かでなかった。
「おいおい、俺に何させる気だ?」
さすがに姉の意図を図りかねて声をあげれば、彼女は相も変わらずポーカーフェイスで微笑んでいる。
「あら、話があるんでしょ。この中の部屋にいるから、会えばいいわ。」
指さす先にあるのは重い鉄扉だった。それは明らかに普通の個室のものではない。しかも頑丈な閂で閉ざされていた。中からは決して開かないだろう。
「どういうことだ?」
ふう、とため息をつく気配がした。
「仕事でヘマしたのよ。あの子。」
「大事な人材を殺しちゃったの。生体錬成専門の錬金術師。方々を探して見つけた逸材だったのに…」
たっぷり働いてもらうつもりでいたのに、ほんと残念。
穏やかだが剣呑な響きを宿した声だった。基本的に努力家で仕事熱心なラストからすれば長い間の工作が一瞬で瓦解したような、かなり不愉快な出来事だったのだろう。
「荒れてる…とでもいうのかしら。最近のあの子、仕事の仕方が乱暴だったの。時間には来ないわ、いつも上の空で人の言うことは聞かないわ、その上無駄に壊したり殺したり。馬鹿なことばかりするから迂闊に外に出せなくて、とりあえずその錬金術師の世話をさせていたのよ。大した仕事じゃないわ。三度三度個室に食事を運んで、逃げないように見張って、必要があったら研究所まで護送して…。」
言葉を切って一息つく。もう微笑んではいなかった。彼女には珍しい、苦虫をかみつぶしたような顔。
「そしたら、その男まで…壊しちゃった。」
「それもやり方がひどいのよぉ。ほんとに『殺した』ってより『壊した』って感じ。部屋が滅茶苦茶で、おかげでこっちは掃除が大変だったわ。」
「作戦に遅れは出るし、私は監督不行届きってことでプライドから文句が出るし…たまったもんじゃないの。」
グリードは無表情のまま聞いていた。そして、そうか、とだけ低い声でつぶやいた。女の赤い唇からふっと苦笑が漏れる。
「…とにかくそれで謹慎処分になったのよ。今は様子見。反省の色が見えたら、あそこから出すわ。」
女は腰に下げていた鍵を男に差し、受け取るよう促した。彼はどう反応するべきか分からない。鍵を手にしてとりあえず言葉を継いだ。
「もし、反省しなかったら?」
ちらりとラストの視線が動く。暗がりではすみれ色にも見える虹彩に一瞬青白い光が走ったのを見たような気がした。
「…それはお父様次第、ね。」
それが暗に意味するところを男は即座に理解した。
どうやら己が考えていた以上に深刻な事態が到来しようとしている。しかもまるで予期していなかったような形で――
「俺に何させてえんだ?」
ひとまず表情を動かさずに淡々と問う。だが思わず握りしめた鍵束が、男の手のひらでじゃらりと音を立てる。
「あら、何かすることがあるの?」
気怠げな口調と裏腹に、その瞳が挑発するような光を帯びてきらりと光る。
男は何かを見透かされているような落ちつかない気持ちになった。この女、気づいてるのか?
当然ながら、これまでエンヴィーとのことなど誰にも話したことはなかった。
「俺は看守をやるつもりなんてねえぞ。」
「なら、このまま帰る?」
彼女は艶然と笑っている。男の当惑を楽しんでいるかのように。
壁に備え付けられた光源の鈍い光でまろやかな身体の輪郭が浮き上がっていた。白い肩と鮮やかなコントラストを成す黒髪は、どこまでも真っ直ぐに流れるエンヴィーのそれと違い、うねり波打っている。
ふと、男はその髪の感触を知っているような気がした。柔らかくまとわりつき、絡みつくような。肌の甘い香りを宿したその香りを鼻孔に嗅いだことがあるような感覚に、突如つつまれたのだ。
(――錯覚だ。)
無理矢理視線を逸らした。意識を他に逸らすため、少しわざとらしいくらい大きい動作で頭を掻く。仕方ねぇなあ。我知らず、殊更に億劫そうな声が出た。
「…んな、ガキの使いじゃあるまいし、こんな面倒くせぇとこまで来といて、はいそうですかって帰れるか。」
「そういうと思ったわぁ。じゃ、よろしくね。」
赤い唇で微笑んだ姉は、ふてくされたような顔を崩さない相手に赤い瞳を細める。先ほどの挑むような目ではなく今度は親愛の情すらたたえていた。大きな弟は腕組みをして同じ色の瞳をあさっての方向に向けたままだ。
男の心の内を知ってか知らずか、その様子に彼女は笑みを深くしてそっと囁く。
「心配しないで。私が戻ってくるまで二人で良い子にしててくれればいいだけよ…。」
そして、もう一人の弟を促した。さあ、行くわよスロウス。
女が去る後ろ姿に、男は捨て台詞を吐く。
「言っとくが、俺は看守向きじゃねぇぞ。」
彼女は立ち止まった。
「…どうかしらね。案外、向いてるかもよ。」
振り向いて一瞬、唇の端だけでまた笑う。
「ずっと、囚われていたくなるかも。」
「…糞が。」
女の姿が見えなくなったとき、彼は一人苦笑した。
つづく