嫉妬

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2.


その後起きたことは全てがめまぐるしかった。

戸を開けるとまだ男は寝台に寝そべったまま、呑気に煙草など吸っていた。
そして戸を蹴破らんばかりの勢いで現れた侵入者に、さして驚いた様子もなく何事かを言った。
だが、エンヴィーの灼熱した意識はそれを理解しない。

代わりに認知したのは生々しく乱れた寝具と、粗末なテーブルの上に置かれた一対のワイングラス。言語を失うような動揺の中でも、冷酷なほどに研ぎ澄まされた視覚がその片方のふちについたルージュの痕跡を確認する。そして誤魔化しようがないのは部屋に満ちた、あの同じ残り香。

意識が遠のくような感覚がした。




「おいおい…こいつぁ驚いたな。」

次の瞬間、気づくと時間が飛んでいた。
男がいつものとぼけ声を上げるのを、まるで遠い場所の出来事であるかのように聞いている。口調と裏腹に、その胸にはぱっくりと開く真っ赤な切り裂き傷。大きいが深手ではなく、眼前でみるみる再生し塞がっていく。ホムンクルスゆえの見事な生命力。同胞ならば見慣れた光景。

「挨拶の言葉もなしに、いきなり斬りかかってくるたぁ随分な作法だな!」

見ると鋭い刃に変貌した己の手から鮮血がしたたっている。改めてああこれは自分がやったのかと、一瞬遅れてまるで人ごとのように認知した。事実、肉を抉った感覚を手は覚えていた。しかし実感がない。まるでその瞬間、魂だけが遠く離れていたように感じた。これはどうしたことだ。

何かを言おうとするが言葉が出ない。

「嫉妬するってぇのはわかるが、いきなりここまでやるか?」

立ちつくすエンヴィーを尻目に、男は腰にシーツ一枚の姿で悠然と起き上がる。そして大きく伸びを一つ。もう傷はほぼ完全に再生していた。目をこらしてようやく、いつもより赤みがかった肉の盛り上がりに気づくくらいだ。ただ、周囲の皮膚と白いシーツが盛大に赤で彩られている。男もそれを見とがめて顔をしかめた。あーあ、汚してくれやがって。また追加の洗濯代取られちまうぜ。そう言って、右手に持ったままだった煙草を側の灰皿でもみ消した。

「何か言えよ。それとも言葉を忘れたか?」

言葉どころか感情も忘れているように、エンヴィーはただ呆然と見返すばかり。
だが、男がいつもの余裕を崩さないばかりか、痛みがひいたのであろうその顔にふうっと笑みすら浮かぶのを見たときだ。
突然、スイッチが入ったように感覚が戻った。


それはまず、言葉になるはっきりとした感情というよりも、全身を貫く激しい不快感のような形でエンヴィーを襲った。ただ、胃がずんと重くなったような感覚と共に、淀んだ空気の孕むアルコールと溶けたチーズ、血と汗の全てが入り交じった臭いを急に強く意識し、頭がくらくらとした。この感覚は何だ。激しい混乱の中、そのまま怪訝な顔をして手を伸ばそうとする男を振り切るようにして、よろよろと後ずさる。

長い生涯にも関わらず、愛情や執着に関するエンヴィーの情緒は非常に未熟だったのだ。彼(彼女)は自分の受けた精神的な衝撃をとっさに怒りや悲しみの表現として言葉にすることが出来なかった。だからまずは身体的苦痛として受け止め、ただ混乱した。

「おい、どうした。」

エンヴィーは応えない。ついに背中が壁にぶつかって行き詰まり、放心したような眼差しのまま、大きく肩で息をした。胸一杯に吸い込まれた空気に、灼熱した頭が僅かに冷えた。少しずつ、言葉が戻ってくるのを感じる。
グリードがしきりに何かを話しかけてくるのは無視し、相手の方は見ずに、かろうじて絞り出すような声でつぶやいた。

「…ラスト、」

混乱の中最初に出たのは、何故かその名前だった。

「あ?」

男が怪訝そうな声を出すのも構わず、勢いのまま、うわごとのように口走る。

「あの女だよ………ラストに似ている。」


一瞬、虚を突かれたかのような沈黙があった。

唐突さに驚いたのか、他の感情があったのかは定かでない。だがいずれにせよそれは僅かにだがグリードの反応を送らせ、それだけでもうエンヴィーには充分だった。

胸の奥は熱いのに、体の芯のどこかが冷たく醒めていく。微かに耳鳴り。頭痛が酷くなったように感じて、だけど頭は冴えた。


傍らにいたグリードを押しのけるようにして、寄りかかっていた壁から身を起こす。そのまま少しふらつきながら部屋の中央まで歩み寄る。
そして立ち止まると一つ重たげな溜め息をつき、肩を落とし頭を垂れた姿勢のまま、吐き捨てるようにつぶやいた。

「帰る。」

グリードは目を見開いたまま、まだ呆気に取られている。だからだめ押しのようにもう一言。

「二度と、来ない…!」

そして背筋を伸ばしたかと思うと突如身を翻し、ドアに向かって勢いよく歩き出した。

「え、おい、」

一瞬遅れて、男は追いかけようとした。

「ちょっと待っ…」

しかしドアノブに手をかけたエンヴィーを捕まえようとしたまさにそのときだ。絶妙のタイミングで腰に巻いたシーツがずり落ち、布地に足を取られ出遅れた。
鼻先でぴしゃりとドアが閉まる。しかも全裸に近い姿ゆえ外に出て追いかける気も削がれてしまう。男にしては何とも間抜けな事態だった。
とりあえず、勇み足に遠ざかる足音を聞きながら頭を掻いた。





とはいえ、彼は驚き戸惑いはしたが所詮は強欲。そもそも事態をあまり重く受け止めてはいなかった。
エンヴィーが更に攻撃をしかけてきたなら、またはせめて泣いてなじったりしたならば、まだしもわかりやすかっただろう。だが、そうはならなかった。
およそ繊細さとはほど遠いグリードのような気性の男にとって、これだけのやり取りで彼(彼女)の未熟な精神が被った痛手を適切に理解するのはかなり困難なことだった。

斬りかかってきたかと思えば大人しくなり、そのまま何を言うでもなく黙って帰ると言ったのだ。自分がこれ以上何をすることがあるだろうか。
だいたい、エンヴィーは自分がこういう男だと言うことをそれこそ百年以上前から知っているのではなかったか。何を今更驚く?
人間の小娘でもあるまいし――と、しまいには真剣に訝しがる始末だった。

もし明日か明後日、言いたいことがあるなら向こうから連絡が来るだろう。さもなくば、しばらくほとぼりを冷ます方がよいだろう。そのくらいに考えていた。




要は、どうせ自分のモノだとタカをくくっていたのだ。
だからすぐに連絡くらいあるだろうと思いこみ、旅に出ると一度は決めたくせに宿を変えずにだらだらと逗留を引き延ばした。同時に女とはそこそこよろしくやり、ついでに更なる裏の情報にも通じることが出来た。





だが、エンヴィーからは音沙汰の無いまま一月経った。そして二月が過ぎ、気づくと季節が変わろうとしていた。


「クソが…」

曇天の肌寒い日だった。ついに男は出発を決め、宿を後にすることになる。
向かったのは予定していた南ではない。むしろ北上して首都――セントラルを目指した。

仲間のホムンクルス達が居るはずの場所。
もちろん、エンヴィーも。





つづく




【作者後記】
ついにやってしまったエンヴィーの「初めての嫉妬」話。
それもいきなりどぎつい展開ですいませんです…。このあと痛い話が続きます。バッドエンドではないつもりですが、エンビのコンプレックスやら二人のすれ違いやらが出てきて、結構しんどい話になるかも知れません。一応予告しておきます(汗

鋼では多分初めて書く(かな?)痛めな話ですが、自分的にはこれ系が多分本領発揮です。(←
ラブラブを書いてる方が珍しい。




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