嫉妬

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1.


「もうすぐここを出て行くかも知れねえ。」

曇り硝子の向こうは宵闇。グラスを片手にそう言ったとき、男はふと、随分長いこと同じ所にいることを思い出した。

目の前に視線を戻す。傍らに立つ女の長い睫に縁取られた瞳が一瞬大きく見開かれたのを見た。だがすぐに取り繕って、そう、と微笑む。寂しくなるわ。そのまま、さり気なく目を逸らしテーブルの上を片付けようとした。

安宿の半地下にある酒場。女はそこの給仕で、男は最後の客だった。もう随分前からこの宿の最上階に部屋を取っていて、日中用事に費やした後、ここで時を過ごしては適当な時間に切り上げるのが常だった。

だがその夜だけはいつもと少し違っていた。女の気丈さを装った横顔と一瞬揺れた眼差しに、長い前髪がはらりと頬まで落ちるのを掻き上げる仕草に、男の中の何かが疼いたのだ。

だからテーブルを拭こうとした白い手をつかみ、言った。

「もっと飲んでいけよ。今日は俺のおごりだ。」


何の気はなく時々話をしていた酒場の女。こんな田舎には勿体ない器量の、恐らくはワケありの女。すこし前まで宿屋の常連とデキてたが、そいつは一月ほど前に事業で失敗して夜逃げした。

もちろんその全て、グリードにはどうでも良かった。要は欲しくなったのだ。いつものこと。
女はあっさりと部屋までついてきた。



そして女の細い肩を抱きよせる感触に、投げ出すように胸に預けられた体の温かい柔らかさに奇妙な懐かしさを覚え、唐突に思い出す。

自分にしては随分長いこと人間の女と寝ていなかったことを。

いつからかは思い出せない。少なくともこの街に来てからは覚えがない。
金が入るたびに酒場で周りに娘を侍らせ戯れはしたが、誰も部屋には入れていなかった。そう、誰も。

――――たった一人を除いては。

そのことに思い至り自分でも少し驚いた。
熱い首筋に顔を埋めながら、俺としたことが、と声もなく嗤う。
そして片手に余る豊かな乳房をつかんだとき思考を止めた。







冬枯れの寂しい景色の中、エンヴィーは黙々と歩いていた。南の地方だから雪は降らない。しかし中途半端な寒さはただでさえ寂れた田舎の宿場町を、一層荒涼とした景色へと変えていた。
木枯らしにいつものコートがなびき、フードが外れ長い黒髪が風に踊る。男の逗留する宿屋が視界に入った時、一度立ち止まった。
別に並外れた美形というわけではないが、白い肌に切れ長な瞳の、少年にも少女にも見える端正な顔立ちは目立つ。通りゆく人が一人、二人と振り返った。それを意にも介さず、じっと男のいるであろうあたり、安宿の窓を遠くから見つめる。

本当はこんなに早く来る予定は無かった。いつも特に約束はしないが、もう随分前から暗黙のリズムができていた。それを崩すときは大抵一言連絡を入れていた。
だけど今日は何かに背中を押されるように、それを破った。男はきっと自分の訪問を予期していないだろう。
そもそも男のいるはずの窓には明かりがなかった。無駄足になるかも知れない。一瞬、引き返そうかと悩み、やめた。顔を上げ、再び颯爽と歩き出す。

何故こんな行動を取っているのか、自分でも解らなかった。というより、漠然とその理由を知ってはいたが、敢えて言語化するのを頭のどこかが無意識のうちに拒んだ。



宿の戸に手をたてた途端、突然足が重くなった気がした。
自分でも解らない奇妙な反応。まるでこの先に見てはならないものがあるみたいに。
そんな自分に不思議な焦燥感を感じながら軋む戸を押す。安宿特有の埃と煙草のヤニ臭さ。躊躇いを振り払い、一歩踏み出した。




屋根裏部屋へと続く狭い階段を昇っていたときだ。
不意に上から降りてくる人の気配がした。
階段のわきにある小窓から、曇天とはいえ光が差し、まろやかな曲線が軟らかいシルエットを成し浮かび上がる。見上げたままぎょっとして立ち止まった。それが見知った人間であることに気づいたからだ。
女。一度はグリードと酒場で話しているのをみたことがある。あとは給仕をしている姿を何度か。しかし以前見かけたときと異なり女は豊かな金髪を垂らしていた。
階段を気だるげに一段一段下りながら、慣れた手つきで豊かなウェーブのかかった髪をかきあげ、片手に握り込んだ飾りひもで一つにまとめようとしている。これから酒場にでも出るのだろう。

彼女は下の薄暗い場所にいるエンヴィーが見えない。視線にもまだ気づかない。
ただ、エンヴィーだけが呆然と立ちすくみ、逆光となった柔らかな頬に金のほつれ毛がおりる様子まで、その何でもない仕草をスローモーションのように目蓋に焼きつける。

いつも、人間達と必要以上に接触することを避けていた。相手が気づく前に闇に紛れるのが常だった。
だがこの時だけは動けなかった。恐ろしい直感が彼(彼女)を捉えていたからだ。


(――何故、この女がこの時間、ここにいる?)


この先の階には部屋が二つしかなかった。男のいる屋根裏部屋と、殆ど物置のようになっている小部屋と。

回答は、明白。

階段の手すりを握る手が、震えた。


凝視しているエンヴィーにようやく気づいた女が、あら、こんにちはと声をかける。
彼(彼女)は答えられなかった。
そして初めて女と視線が交錯したとき、激しい狼狽を覚えた。
その外見が一般に「美しい」と言われる部類のものであることを、改めて痛烈に認識したからだ。
女は澄んだ青い目をしていた。紅を差さずとも赤みを帯びた唇が白い肌に映えた。同時に、緩やかなウェーブを描き額から頬にかけて落ちる長い前髪に、通った鼻梁と涼しげな目元のはしに、どこかで見たような既視感があった。

前見たときは気づかなかった何か。女に感心がなかったのと、酒場の薄暗さと違う髪型のせいで、見えていなかったある些細な要素――


(…この女、誰かに似ている。)
(それもよく知っている顔の、誰かだ。)

(…くそ、思い出せない。)


相手が声を返さないのを気にかけた様子もなく女は微笑み、そのまま立ちつくす彼(彼女)の横を通り過ぎようとした。ふわりとした気配ともに、女の甘い肌の匂いが鼻孔をつく。

もう一度振り返る。女が気配と視線に反応し、何の気もなしに流し目をくれたときだ。エンヴィーの脳裏で一つの名が、明滅した。


次の瞬間、殆ど女を押しのけるような勢いでエンヴィーは階段を駆け上った。



つづく


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