エリクシール

BACK NEXT TOP


5.取引(リンの回想)


エンヴィーと初めて話したのは、丁度このくらいの季節、そう、一年前のことだった。
向こうから接触してきたのだ。それまで俺は存在を意識してすらいなかった。実家の仕事と学業その他で、忙しかったのもあるだろう。また、エドが言ったように、奴が休みがちだったという事情もあるのだろう。

「リン・ヤオ、だよな?」

だから突然話しかけられたとき、まるで見知らぬ人間をそこに見るような感覚で、俺はそいつの方を見上げた。相手が何故俺の名前を知っているのかは、別に不思議でなかった。俺はクラスで二、三人しかいないマイノリティのチャイニーズだから、何となく知られてるか、または「あの髪の長い中国人」という感じで認識されていることが多かったからだ。

「…ああ、そうだガ。」

「ちょっと、顔かしてよ?」

その時俺は広い芝生が続く学校の敷地の片隅にいて、木陰で本を読んでいた。相手は太陽を背に、俺の方をのぞき込む感じで立っていた。なんだこいつ、と思ったがひとまず笑顔で答える。

「今、面白いところなんダ。話ならここで聞くけド。」

実はあまり読書に集中していたわけではなかったが、正直面倒くさい気配がして、わざとらしく手にしてた本を開いて見せてやった。だいたいこの時点で俺はまだ向こうの名前を知らない。そいつは怪訝そうな顔をして身をかがめ、俺の手元をのぞき込んだ。無造作な動きに、長い髪の毛がはらりと俺の視界のすぐ側を舞う。うるさそうに髪を抑える仕草に、たくさんピアスの穴が空いた耳元が見えた。

「なに、宇宙とか、好きなわけぇ?」

顔が近い。妙に語尾を伸ばす、男にしては妙に甘ったるい話し方が耳についた。だが同時に、ページを一瞥しただけで、その本の内容が何かを見抜く程度の知性が相手にあるらしいことを少し意外に思った。もっと何も考えてない、頭がイカれてるジャンキーのような印象があったからだ。

「まあネ。」

「でもね、こっちには、もっと面白い話があるんだぁ。だから、ちょっと来てよ。」

「それは、ここじゃ出来ないような話なのかナ。」

「まあねぇ。お前、一年だよね?」

「確かにそうだガ…」

満面の、だが感情の読めない笑みを浮かべるのを見て背筋に冷たいものが走る。そのとき、遠くで予鈴のベル。助かった、と俺は安堵する。

「悪いが、これから授業だかラ、」

相手を半ば押しのけるようにして立ち上がる。このまま、何事もなく、俺は授業に戻るはずだった。
だが、恐らく運命の分かれ目とは、こういう瞬間のことを言うのだろう。
ジーンズについた芝生を払っているとき、不意に背後から言われた、その時のことを、俺はきっと忘れることが出来ない。

「お前さぁ、こないだの日曜、サウスシティにいただろ。」

不意打ちの質問だった。刹那、無視しろ、歩き出せ、俺の中で理性が叫んだ。だが最悪なことに、俺の身体は固まる。振り返ってしまう。

「そんな、警戒感丸出しの顔しないでよ。」

そこには満面の笑み、それも先ほどはなかった、明らかに薄暗い影を含んだ――微笑。あ、かかった。捕獲された。俺の中で警報が鳴る。相手が言った。嬉しそうに。

「このエンヴィーもね、あのときあそこにいたんだよ。あのモーテル。」

今はやめているが、その頃、俺は小遣い稼ぎに時々、売春をしていた。そしてこのクソ田舎にはそれに適した場所は少ない。不幸にも、その現場の一つを奴に見られてしまったというわけだ。
無論、俺は未成年だから、見つかっても基本的に罰されるのは買った側で、俺はソーシャルワーカーやカウンセラーと話して終わりのはずだ。それだけでも既に面倒だが、そこに破滅的な要素はなかった。
だが、俺の場合、他に事情があった。売春ついでに厄介なブツの輸送も請け負っていたのだ。
大抵は客から包みを受け取って指定の場所にただ運ぶだけで、中身は何も知らない。多分、そこまで大したものじゃない。
ただ、調べられて見つかったら多分、俺もカウンセリングだけでは済まない。それだけはガキなりに分かっていたし、どうしても避けなければならなかった。





そしてその日の夕方、俺たちは二人で、チャイナタウンを歩いていた。
俺は落ち着かなかった。売春の件で俺に脅しでもかけてくるのかと思い身構えていたのに、エンヴィーはなかなか本題に入らない。ドラッグストアで買い物して、コーラを飲みながら、まるでさっきの話は無かったみたいに関係ない世間話をダラダラ続けている。

家が近くなってきて、俺はさすがに立ち止まった。本気で家の場所まで知られたらたまらないので、本題に移るため話を振ることにする。

「…ところで、さっき言ってた面白い話、って何なんダ。」

すると、ああそうだ、そうだったよ。わざとらしい大げさな動作で相手が手を叩く。

「そうだよねぇ、ごめんごめん。例の話をしなきゃね。」

「勿体ぶらないで早く言ったらどうダ。」

上目遣いで奴が俺を見る。不快な緊張が俺の背中を走る。身長は俺の方が少し高い。一瞬の攻防で、間合いに入られた。奴が近寄り、俺の耳元に囁く。

「身内が残してったあるモノを、売りたいんだ。」

たったそれだけの言葉で、俺はだいたいのところを理解した。同時に、モーテルで俺がしていたことが売春だけでないとエンヴィーが理解していたように感じて、背筋に戦慄が走る。
こいつ、勘がいいな。

「どうしテ…俺に話を持ちかけル?」

「チャイナタウンにはもっと客がいそうだから。『あの方法』で集めるのにも限界があってさぁ…」

わかるだろ?同業者なら、と目配せしてくるのを無視して、何故俺に?と質問する。
俺だと目立っちゃうし、と無邪気な顔で相手は肩をすくめる。肩にかかる長い黒髪が揺れた。その色も切れ長の瞳も、純粋な白人のそれではなかった。だけど俺たちのようなアジア系ではない。かといって、中東系かといえばそうでもない。はっきりしない。色々なところの血が混じっているのだろうということは察しが付いた。確かにこの外見だとチャイナタウンに深入りは出来ない。ここのやつらは中国語が多少出来なくても、同じ華僑であることを重視するからだ。

「二、三人興味ありそうな奴を紹介してくれるだけでいいんだ。…後悔しないよ。約束する。」

表向き優しげなくせに、有無を言わさない口調。不覚にも一瞬思考停止のような感覚に囚われて、わかった、と即答していた。
その次の奴の台詞をやけによく覚えている。缶に残ったコーラを飲み干したあと、突然エンヴィーが言ったのだ。

「チャイニーズはさぁ、親が結婚に口だしてきてうるさいって、ほんと?」

不躾な質問だったが、俺もお人好しだから答えて、無駄な会話のとっかかりを作ってしまう。

「確かに、親は中国人と結婚しろ、中国人の子孫を残せってうるさイ。」

しかもエンヴィーが受けて、愉快げな笑い声をあげるものだから、腹立たしい。

「お前らはさ、家族を大切にするよねぇ?でもさ、そういうやつらってさ、家族が殺し合ったときどうすんの?」

まるで、コーラの缶が破裂したらどうする?とでも聞くような気軽さだった。

「…?」

「たとえばさぁ、あんたの父親が兄貴を殺した場合とか、兄弟が殺し合ったりとかしたら、どうする。」

「知るか、そんなノ。」

素っ気なく答えた。唐突な話題の転換。しかも無礼な内容に、俺はレイシズム(人種差別)を疑い始めていた。すると奴は白い歯を見せてまだ絡んでくる。

「お前、自分たちの文化のことなのに、知らないの?」

「あんたこそ、歴史の勉強でもしろヨ。今は21世紀だゾ。そんなことになったら、警察呼んで終わりダ。」

そのままきびすを返して歩き出そうとした。すると、待ってよ、もう一つ大事な事を忘れていた、奴が言う。
うんざりしながらそれでもまた、俺は振り返ってしまった。切れ長の、赤みを帯びた不思議な色の瞳がまっすぐ俺を見る。
一瞬逆光。口角は上げていたけど、さっきと違ってどこか真剣な表情で、その時ふと、誰かに似ていると思ったような――――気がした。

「今度の土曜日、あいてる?ちょっとある作業を手伝って欲しいんだ。Eの件とは別。」

「作業?」

「冷凍庫を買ったから、運びたいんだ。うっかりでかいの買っちゃったから、一人だと重くてさ。配送料高いし。」

「どうしてまたそんなものヲ…」

「弟がさ、半端なく食うんだよ。ピザとか冷凍のやつ買いためておいとかないとたまんなくてさぁ。」

「弟に運ばせろヨ。」

「それができればいいんだけど、ここが弱くてさぁ。言うとおりに動いてくんないんだよねぇ。」

人差し指で頭を指して、唇を歪める。さっきまでの傍若無人な様子とは違い、人生の苦い部分を知ってるって顔に見えた。弱みを握っている相手の見せた別の面に、何故か俺はまたやられてしまう。イヤだと断るタイミングを失った。





冷凍庫を運ぶ作業は難航した。
だいたい、最初からとんでもなかった。指定された場所に向かったら、あいつが開口一番言ったのだ。

「え、あんた、車持ってんじゃなかったの?」

「はァ?」

どうやら、最初から大いなる誤解をしていたらしい。チャイナタウンの他の誰かと間違えていたようだった。車で通り過ぎるところを見たのに、と繰り返されてようやく気づいた。俺は車など持っていない。

「くそっ、お前みたいな糸目のやつ、多すぎるんだよ!」

ぶつぶつ言うのを聞くながら、俺も嫌な気持ちになっていた。まさかこんなに間抜けな話につきあわされていたとは。
そもそも、俺はこいつに見られてはならないところを見られたことから取引の関係に入ってしまったわけだが、それも本当に俺だったのだろうか。誰か別のヤツを見たのに、後ろめたいところがあった俺がつい反応をしてしまい、今こんなことになっているのではないか。
もっとしらを切り通して、誰か他の場所で他の人間を見たのだということにしてしまえばよかった。後悔したが、もう遅い。

そして冷凍庫の搬送というのが、これもとんでもなかった。30分ほど歩かされた後、量販店の冷凍庫を買いにいったわけだが、それをまた30分歩いて二人で家まで運んで欲しいという。
そもそもどうしてその距離で配送サービスを使わないのか。恐るべき詰めの甘さに脱力していると、しれっとした顔で奴は言う。

「だってさぁ、金かかるじゃん?…お前、本当に車ないの?もう、仕方ないなあ。」

そう言って梱包した冷凍庫と共に道ばたに立ち、ヒッチハイクを試みはじめる。それもいやに手慣れた仕草で。
頭にきたので見捨てて帰ろうとしたとたんに運送トラックが通りかかった。そして乗せてやると言う。

「おじさん、ありがとう。」

運転席にいたのは日に焼けた、二の腕に刺青のある恰幅のいい中年男で、髪をかき上げ微笑むエンヴィーの眼差しには明らかに媚びがあった。
なるほど、と俺は思う。こいつの漁場はこういう場所なわけか。きっと、ヒッチハイクもかねてこうして道ばたに立ったことは過去にも何度もあったのだろう。そして、今日は違うが、いつもはそのままトラックの助手席に乗って、どこぞのモーテルにまでしけ込んでしまうのだろう。とんでもないやつだ。人のことはいえないが。

トラックはエンヴィーの自宅から歩いて5分くらいのところで止まり、ここからは二人の作業になった。空っぽとはいえ、人一人くらいの重さはある品物だ。男二人で運んでぎりぎりという感じだった。何より精神的に疲れる一日だった。

言われるまま、台所ではなく、地下室のような所に冷凍庫を設置する。ダンボールから出してわかったが、普通の台所においてある背の高いドアの着いたタイプではなかった。業務用でよくみる、ボックスを床に置くタイプのやつだ。高さは腰くらいまで、長さは1メートルと少しくらいで、しかも冷凍のみ。どれだけ沢山のピザを買い込むつもりなんだろうか。配線を差し込みながら少し妙な感じがしたが、後ろから近づいてきた気配に思考は中断された。

「エンヴィー、おで、腹減った。」

一見しただけでは年齢不詳の肥満した巨体がそこに立っていた。身体の威圧感とは不釣り合いにあどけない、締まりのない笑顔と、焦点の定まらない瞳に、なるほどこれがエンヴィーのいう弟か、とすぐに納得する。確かに大量のピザを食べそうな身体でもあった。

「あー、はいはい。」

「エンヴィー、グリードまだ、こない?」

その時だ。弟には答えず、エンヴィーが突然俺の方を振り返って、言った。

「糸目、お前、もう帰っていいよ。」

そして俺の返事を待たず、満面の笑み。

「今日はありがと。また例の件でも連絡する。じゃあね。」


俺は本当に何も知らなかった。
そして、もっとずっと後になってから、この時のエンヴィーの真意が何であったのか、俺は知ることになる。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2019 all rights reserved.