エリクシール

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1.自殺


夏休み明けの新学期は、いつもどこか気だるい。学校も級友の顔もまるで別世界みたいな違和感が張り付いてるし、教科書を詰め込んだ数週間ぶりの鞄は重すぎる。
おまけに新しい教室に新しいクラス。シャッフルされて見慣れない顔ぶれ。知ってる奴も、夏の間に少しだけ日焼けした肌と背伸びした服で、どこかよそよそしい。
その重たい鞄を席に置いたときだった。唐突に聞かされた。

「そういや――自殺した奴がいるらしいぜ。」

「は?…何それ、新しい冗談?」

「違うって、さっき、教員室の前通ったら聞こえたんだ。話してた。」

「へえ?」

「ほら、あいつだよ、変な名前の。去年落第して俺らと同じ学年になったやつ。」

ただでさえ夏休みのあとのふやけた頭に、唐突な話題。思い出すのに数秒かかってから、その名前は浮かんだ。

「まさか…エンヴィー?」

「そう、そいつ。エンヴィー。」

「マジ?冗談だろ?」

「間違いねえよ。確かに聞いたんだ。」

その瞬間、教師が入ってきた。

「皆さんに悲しいお知らせがあります――」

マリア・ロス先生は俺がさっき聞いたのと同じことを繰り返した。ただし自殺とははっきり言わなかった。かわりにそいつ――エンヴィーが俺たちの新しいクラスメイトになる予定だったということを知らされた。
アルトの声を聞きながら、俺はマリア・ロス先生の泣きぼくろをぼんやり見る。先生は二十代後半。若い教員が多いこの学校ではあまり目立つ方じゃない。ただショートカットの黒髪と目元がいいとか言ってるバカもいた。

実感がなかった。それは他のクラスメイトも同じだろう。
圧倒的な現実は、そこに一人分の使われない空席があるという、ただそれだけのこと。その説明にとってつけたように、ぺたっとそこにシールでも貼ったみたいに「死」という言葉がうすっぺらく貼ってある。たとえるならそんな感じ。

しかも俺は一年半前からこっちに来た新参者で同じクラスだったこともないから、他のヤツに輪をかけてヤツのことを知らない。ファミリーネームすらまともに思い出せない。
変わった名前だったファーストネームばかり覚えてる。だって、Envy(嫉妬)。変な名前だ。
そう、あいつの家族は変わっていた。姉はLust(色欲)、弟はGluttony(暴食)だったのだから。ほかにも何人か兄弟がいたらしいがみんなその調子だという。

え、ロクに知らないくせにどうしてこんなことは知ってるのかって?
簡単だ。いないのに奴の噂だけはみんなしていたからだ。大抵はろくなもんじゃなかった。
その意味では目立つ生徒だった。女のように髪を伸ばして時折は黒いマニキュアもしていたり、こんな田舎町にしては服のセンスや行動がちょっと奇抜で変な音楽を聴いていたりしたせいだろう。実家はすごい大金持ちだとか、いや親には見捨てられたんだとか、ゲイだとか、教師相手に暴力沙汰を起こしたとか、クスリ漬けのジャンキーだとか、売春してるとか、私生活の根も葉もない噂まで飛び交っていた。

本当のことはわからないのに気になる存在、要はそういうやつだった。


ちなみに俺も髪は長くてからかわれたけど、それには別の理由がある。だから別に仲間意識を持つことはなかった。






家に戻ると、俺の顔を見るなりピナコばあちゃんが言った。

「あんたの父さんから電話があったよ。」

「は?あいつが?何で。」

俺は父親と一緒に住んでいない。俺の両親は離婚していた。そして俺を引き取った母が事故で亡くなった後は、母の遠縁に当たるピナコばあちゃんが俺の後見人になって一緒に住んでくれていた。当の親父はといえば、仕事で忙しいとか言い訳を付けて俺たちの前にロクに現れることはなく、前に会ったのも数ヶ月前だった。

「この街に来るらしいよ。何でも葬式だってさ。」

「葬式…?誰の。」

まさか、なと思いながらも一瞬心臓が飛び跳ねたのは何故だろう。まるで何かを予感したように。

「あたしも驚いたんだけどね。遠縁の誰かが死んだんだとさ。あたしゃ、あの人の親戚がこの町にいるってことすら知らなかったのに。」

「えっ、」

「それも何と、まだ若い男の子の葬式らしいんだよ。つまりあんたにも親戚に当たるんだけどね。名前はえーと…」

まさか、と思いながらも俺はその名を口にする。

「エンヴィー?」

「そう!知ってるかい?それともお父さんからもう聞いたのかね?」

「いや、全然。今日先生から聞いた。死んだ奴がいるって。」

「その子はハイスクールからこの街に来たっていうから二年前からいたらしいんだよ。こんな、一言くらいあんたに知らせればいいのに、ねえ。」

「…あいつはそうだろ。いつも。」

思わず声が低くなった。経緯からすれば当然だが、俺は基本的に親父と仲が悪かった。というより、物心ついてから直接、親父(Dad)と読んだ記憶がほとんどない。

「でも、じゃあ奴…エンヴィーの名字は、ホーエンハイムなのか?」

「いいや、それが違うみたいなんだよ。だから余計分からなかったんだろうねえ。あんたはエルリックだし。」



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