Tourne tourne le cercle du destin

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  月夜  


それはほんの気まぐれの遊びだった。お前なんて殺しちゃってもいいんだけどね。
いつもと同じに笑みを浮かべる口元。しかしその赤い瞳は月を映しこんで冴え冴えと光り、冗談でないことは見て取れた。

どうしてその気になったのか、エンヴィーの気まぐれをリン・ヤオは理解できなかったし、理解しようとも思わない。ただ曖昧な笑みを浮かべ、たまにハそういう遊びもいいネ、と手を取った。

夜風に晒され続けた相手の肌はひんやりと冷たく、だけど密かに凍えたのはリンの方。
きっと自分の体熱が相手を暖めきることはなくて、でも相手は何とも感じないだろう。
そう思いながら長い髪をかき分け、首筋に顔を埋めるようにして舌を這わせると、くすぐったそうに笑い声が漏れた。そこだけ妙に人間くさく感じてほっとする。

あとは言葉も交わさず、獣のように交わった。単刀直入に欲を満たしすぐに離れた。





ベッドに横たわったまま目を閉じて、一瞬記憶が途切れた後、風の音を聞いた。
再び目を開けると天の頂にさしかかる満月。用が済めばさっさと出て行くかと思った相手は、まだみじろぎもせず傍らにいる。
仰向けのまま、じっと瞳を開けて、やはり宙を見つめていた。
静かだった。あまりに静かで、リンの方から沈黙を破る。賢者の石のことをのぞけば、他に話すことなどないと思っていたのに、ふと好奇心につられた。

「…それにしてもいきなりで、驚いたヨ。」

「ふうん?」

どうでもよさそうな、熱のこもらない、声。

「ホムンクルスでもこういうことするんだナ。」

ふん、と鼻で笑ったような気配がした。まともな返答はない。会話を続ける気はないのだろうと判断し、起き上がろうとしたとしたらエンヴィーが言った。

「おまえは、意外と躊躇わなかったね。」

「ン?」

「ガキのくせに、随分と慣れてる。」

「そうでもないけド。」

「このエンヴィーの身体を見ても驚かなかった。」

雌雄同体である身のことを指しているとすぐわかったが、気づかないふりをした。その代わり、全く別のことを話したくなる。何故かはわからない。気まぐれ。

「…一通り、手ほどきを受けているからネ。」

「は?何の。」

傍らのエンヴィーが怪訝そうに眉をひそめる。確かにわからないだろう。「房中術の会得」という語が母国の言葉でうかぶが、アメストリス語でうまく表現できない。苦笑して、代わりに言った。

「皇族はそういうしきたりなんダ。ある程度の年になれば、こういうことも教えてもらえル。」

目の前で破廉恥なホムンクルスが、大きな口を卑猥にゆがめて嬉しそうな顔をするのを見る。

「はっはァ…誰かが、オトナへの扉も開いてくれちゃうってわけだ?」

「そうだヨ。」

そして刹那、思い出す。
遠い場所、文化も言葉も違う、遠い国での記憶。





あれは、月の明るい宵だった。丁度今日のように。

少し眠った後起きて、乾いていく汗に肌が少し引き連れる感じがした。結った髪がほどけて、肩に降りかかるのを気だるく払った。

先ほどまで傍らにあった体温をふと思い出す。恭しく、事が済んだら頭を下げて出て行った。今日のために選ばれた臣下の者。役目を終えてもう会うこともない。それを何事もないように自分も見送った。

眠る必要があったからだ。
月が傾いて朝が来れば、他にするべき次のことがあると知っていた。
次から次へと、全て、決まっていた。

あの場所では全てが、あっけなく淡々と過ぎていた。
いや、実際はどうあれ、そのように対処すべしと教えられていた。
あらゆるものに辿るべき道があり、遠い祖先から受け継がれてきた習わしがあり、人はその筋道を一つ一つ丹念になぞるだけ。

(むやみに立ち止まるものではない。)
(戸惑うことに意味はない。)
(出会い、別れ、生と死。)
(すべてがあるべくしてあるもの。受け入れるべきもの。)

(…そう言われ、育った。)


天と人とをつなぐ存在、皇帝。その血を受け継ぐ身。
世界の理は個人の意思を超えたところにあり、己にできるのはそれを守ることだけ。

愛を知る前に支配を学んだ。
命を与えるより先に死を与えた。
自らの身を守るためではない。ただ、世のため、人のため。臣下の者が列席する場で、咎人を刑に処した。
そしてそのときも、誰かが言った。よくお勤めを果たされました。皇子は天のさししめす理を、秩序をお守りになったのです、と――
それが、皇帝の家に生まれた者に課せられた使命。


だがある日、自分のことを、歴史という巨大な機械が運行するための歯車にしかすぎぬように思えて、たまらなくなった。
何故そう感じたのかは、覚えていない。

ただ、心から欲しいと思ったのだ。初めて。
賢者の石、世の理を支配する、神の領域に属する何か。
父祖より与えられた何かではなく、守るべく託されたものでもなく、自ら手を伸ばし、奪い取りたいと願った。
もしも手が届くならば、せめて、欠片なりともこの手に。

それがたとえ、天の示す道から外れることだとしても。


沙漠を越えていかなければならないと悟ったのも、そのときだ。
運命の輪、ぐるぐる回りつづける、その忌まわしい円環から抜け出すために――





ヒュー、と揶揄するような口笛の音にリンは我に返る。

「噂には聞いてたけど、東じゃあそんな破廉恥なこともしてるんだ?」

野蛮だねえ、とこちらの気持に配慮も容赦もない台詞。そのあとこう続けた。

「まあ、所詮人間なんて、どこでもそんなもんだよね。野蛮で、くだらない。」

嗤った。このエンヴィーにとっては全部同じ。虫けら同然の存在。

見下しの言葉。だが何故か不快ではない。
むしろ皮肉なことにそのとき気づいた。誘われたとはいえ、何故、この人外の存在と交わったのか。

最初から感じていた。複数の魂の集合、賢者の石が孕む生命エネルギーの圧倒的な存在感。大きい、大きくあらねばならない存在。
だが、話して改めて伝わるのは、矮小な魂。人間にすり寄って、身体を寄せて、こんな風にかまって挑発せずにいられない、哀れな永遠の若さ。どうしようもない矛盾を抱えた存在。

何かに、似ている。強烈な既視感があった。
だからきっと引き寄せられた。

(お前ハ…重くはないカ?)
(その背中に背負うもの、幾千幾万もの魂。)

(…いや、幸いにも、それを考えるほどは…頭よくないのかナ。)

頭に浮かんだ考えに気づかれぬよう、そっと笑う。肝心のことを話す気はしなくて、別の話題ではぐらかす。

「いつも、人間とこんなことばかりしてるのカ。」

虚を突かれたように、切れ長の瞳が一瞬大きく見開かれた。すぐに、口元が嘲るように歪む。

「さあね。」

「自由で楽しそうだナ。ホムンクルス。」

「ガキが、わかったような口利きやがって。」

「違うのカ。」

「違うも何も…頭の悪いお前らゴミ虫にわかったような口きかれちゃたまらないっつうの。」

微笑みを崩さずに、リンは心の中で言う。馬鹿はお前だろウ。
反論しないから相手は内心の嘲笑も気づかずいい気になる。それにしてもお前、ほんとに糸目だよね。なれなれしく、のぞき込んでくる。


臆面もなく、満面の笑顔をみせるから、憎くなった。
憎くて、その口を塞いでやりたくなって、勢いで唇を奪った。
衝動。白い胸の奥に賢者の石があるなら、えぐり出して取ってやりたい。瞬間、月が翳る。
そのまま、貪りあった。夜が明けるまで。





夜が明けたら、いつの間にかいなくなってた。
それ以来、忘れていた。その程度の記憶。

なのに今、思い出している。
旅が終わり、あいつも、俺の中にいたもう一人の奴も、全員もういなくなって、残されたのは手元の赤い石だけになったあと、何故か急に思い出した。そして、気づく。

「お前は、それでも笑っていたんだな。」

数万の魂に囲まれた肉体という牢獄。阿鼻叫喚の叫びに取り囲まれ、数百年も死の安寧を持たなかった命。
本物の円環、回り続けるウロボロスの輪。
ほんのわずかな間、強欲の魂と共に垣間見た世界。それは、想像を絶する地獄だった。
今、故郷に戻り、再び歴史の歯車として生きることすら容易に思えるほどの。


一人で、幾万幾千の声と対峙しながら、それでも満面の笑顔で人間をあざ嗤って見せた。

あれは運命に屈従した異形の、せめてもの反抗。
隷従の果てに残された、僅かな余白のような、自由だった。

そう思い至ってからずっと、あの夜の月が、俺の中で輝き続けている。



リンの口調むつかしい。一応、母国語の時や内面のつぶやきではエンヴィーをお前よわばりすることもあるが、アメストリスの言葉では「あんた」で通すということで。 (2014/6/29)
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