出会ったときのことは今でもよく覚えている。
イシュヴァールにいた。人気のない路地で呼び止められ、振り返るとそこに立っていたのだ。
「紅蓮の錬金術師…だね?」
直感的に、気配が人ではないなと思った。だがそれがゆえに不思議な親近感を覚えたのも事実だ。
戦場で出会い、軍の命令を聞く傍ら二、三の簡単な仕事をあの人のため請け負った。
関係を持つようになるまでさほど時間はかからなかった。
あれは何のきっかけでだったか、向こうから仕掛けてきたのだ。
狭い前線の宿舎、適当な用事を言いつけに来たついでだった。書机の椅子に座っていたあの人が、不意に立ち上がってベットに座る私の横に腰掛ける。
「お前は本当に何でもしてくれそうだね、紅蓮の。」
こう言ってさり気なく身を寄せ、人差し指で開襟シャツの襟を撫でた。
ええ、お求めとあらば何なりと。目を見て答えたらそれが合図になった。
最初から相性は良かったように思う。
どうされるのがいいかと訊かれたので先にこちらから大人しく尻を差し出した。実際にそれが好きだったからだ。
二度目か三度目のとき、突き刺すのも貫かれるのも好きだと向こうが身を委ねてきた。変身の出来るホムンクルスだということは最初から理解していたが、その人型の身体が男でも女でもないことをはっきりと知ったのはその時だった。
変身した姿で愉しませてもらうこともあった。相手の特性を十全に生かした快楽の方法。そして命令口調の割には、彼(彼女)は私の頼みを気前よく聞いてくれた。
「今日はどの姿がいいかな?」
「そうですね、では…」
だが数回ほど試した後、そのままの姿でということが増えた。
もともとこちらがあの外見を気に入っていたというのもあるがそれだけではない。
ある日何の気もなく、今日はそのままで、と頼んだらどことなく嬉しそうだったからだ。はっきりそう言われた訳ではなく、本人は無自覚ですらあったかもしれないが、ぼんやりとそう感じた。
何より向こうの悦びも深いように思われた。
(これは大事なことだ。)
それから程なくしてのことだった。
イシュヴァール内乱の発端に自分がどう関わっていたかを話してくれたのは――
「穏健派将校に化けて撃ち殺したんだよ。子供を。」
「あとでそいつは軍法会議にかけられちゃってさあ…」
「些細な火種から人間達の争いが広がっていく様は、愉快だったぁ。」
「はあ…そんなものですか。」
そのときはあまり何の感慨もなく聞いていた。
情事のあとの気だるい時間だったこともあるだろう。何でこの人は今、こんな話をするのだろうと疑問に思い、廊下を歩く軍靴の音にぼんやりと数時間後に始まる作戦のことを思った。
あの人も私の反応にはさほどこだわらなかった。
だが後になりそのことを思い出して、妙な感慨が訪れた。
丁度、集落を一つ消した時だった。
周りでは同僚の軍人達が、畏怖とも感嘆ともつかぬ声をあげていて、私はそれを無感動に聞いていた。
自分にとって当たり前のことにいちいち驚き騒ぐ同胞の存在は時折鬱陶しくもあった。そういう気分があったからだろう。脳裏にふと、あの人の言葉が蘇ったのだ。殺風景な宿営地の薄暗がり、ベットに横たわる細い裸身の残像と共に。
瞬間、悟った。
(――ああ、そうか。)
(あなたは、知って欲しかったんですね。私に。)
(同胞でもない、人間の、それも手駒でしかないはずの、この私に。)
ホムンクルスが無力な人間の子供を狙って撃ち殺し、その一撃により民族同士が血を血で洗う阿鼻叫喚の戦乱が幕を開けた。
何と無慈悲で残酷な構図。
だがあの日、眠りに落ちるか落ちないか、ぎりぎりの意識で聞いていた言葉が記憶の淵から浮かび上がる。
(エリート将校、背の高い男。家族は妻と子供が一人。)
(…うまくやるためにね、そいつのことをずっと見ていたよ。)
(何年も前から、準備していた。)
(誰が見ても奴がやったんだって思われるように。)
(どれもこれも、一世一代の名演技のため。)
(達成の日を思い描きながら、)
(毎日毎日、飽きもせず遠くから眺めてた。)
(あれは…楽しかったぁ。)
来る日も来る日も計画を練った。待ち続けていた。まるで恋でもするように目で追いかけた。愚かな人間達を嗤ってやるために。
人々が大事にする子供を狙って撃った。憎しみがより多くの血を流すように。
何という極まった執着と憎悪。
(――――それは最早、愛のようですらある。)
全部、僅かな仲間の他は誰も知らない物語。
薄闇の中では青白くすら見える、不思議な透明感のある肌の色が浮かぶ。日向で向かい合ったことは数える程もない。
感情豊かで、どこか子供のような面差し。
身体には男の部分と女の部分を併せ持っている。
(大丈夫、子供は出来ないよ。最初の時に笑って言った。)
ホムンクルスは暗躍する者、日陰の存在。生まない、増えない、仲間は少ない。
何百年も前から張られた網、計画の糸をたぐり進み続けた。誰にも知られず、日々築き続けていた。
だから気まぐれに知って欲しくなったのだろう。
想いを、愛憎を、覚悟の程を。
その全てに考え至ったとき、私はまるで、一枚の壮大な絵画を眼前にしたような感覚にとらわれた。
例えるなら、視界全体を覆い尽くすほど巨大なカンバスの一面に圧倒的な、空間をゆがめるような激しさの極彩色がぶちまけられている、その前に立たされたような思い。
それは間違いなくこの人にしか生み出せない作品。彼(彼女)の生きる世界が、厳然たる覚悟がそこにあった。
何と色鮮やかな――――地獄。
種は違えど、似た業を生きる者であることは知っていた。全く違う立場から死を築き、それぞれ自分のやり方に一定の矜恃を持っていた。
しかしその時だけ私は、己の修羅に自信が持てなくなったのだ。
自分の生は激しいが短く、それ故に気を抜けば容易く救済されてしまう――死の安らかな腕の中へと。
しかしあのひとは、違う。
(長い生、数百年の間同じ奈落を這い続けるのは、どんな気持ちだろうか――――?)
想像もつかない時間の蓄積を思い、哀しみにも似た恍惚感が突き上げた。
戦地だというのに、こみ上げる感情に胸が詰まり、束の間立ちつくした。
もともと放埒な性質。
死を築き、死に追われる日々の隙間を埋めるように刹那的な快楽を求めるのは好きだった。男であれ、女であれ誰とでも。
だから気まぐれにやってくるあの人と交わった。情愛が介在しているという感覚は薄かった。
向こうはお気に入りの玩具を見つけたような目をしていたし、こちらは主人の求めと自分の嗜好が合致することに喜び安堵していた。
階級どころか種さえ違う。何らかの持続した関係や感情を持つには立場が違いすぎると感じていた。
しかし、あれ以来、しばしば爆煙と共にたった一人の人の面影が目蓋に浮かぶようになった。
轟音、舞い上がる砂塵、腰椎にしみわたるような振動とともに、白い横顔、背に、脚に刻印の刻まれた身体の幻影を見る。
瞬間身体を突き抜ける興奮は、性的な絶頂にもどこか似ている。いや、時にはそれ以上でさえ。
そして、狂おしく焦がれ惹かれている自分を見いだす。
大罪の名を冠して生まれ何処までも己の定められた道を征く、性を、人を越えた存在。
その姿が、何か果てのようなものを思わせるからだ。
恐らくは自分が一生かかっても辿り着けない世界――――あの、極彩色の地獄を。
END